揺れに揺れたあとも、まだまだ予断を許さない状況です。
世の中の多くのことが。
あの日から“今”が何となく遠く、
ふんわりと霧に包まれたような 「ゆめうつつ」 の日々です。
良し悪しとか、是か非かはともかく、
色んな意見が飛び交う中で、
考えることも多くなりました―
抗えないチカラに
大切なモノを取り上げられたときに人は、
失望、絶望、覚えて然りです。
ただ、
抜け出し、再び歩き出す術も持っています。
支え合う人がいるなら、なおさら。
ならばおまじないのように、
そこにいる皆で唱えればいいと思うのです。
「終わりは始まり」 と。
確かに、他人事かもしれない。
ただ、
だからこそ提唱できること、提唱すべきことはあります。
ゆめゆめ 「ゆめうつつ」 などと、
負の余韻にうつつを抜かしている場合ではないのです。
今日、ボクはまた一つ齢をとり、
どうせならその分、
生きることのスペシャリストに近づかなければならないと思いました。
家族や仲間にとって頼もしい、
スーパーマンに近づかなければならないと思いました。
それはキレイゴトだけでは済みません。
汚れようが傷付こうが、落ちるとこまで落ちようが、
あらゆる手段を使ってでも、守るものは守るのです。
揺れに揺れるこの世界で、揺るぎなく。
ところで、
「ゼロ」って“在る”のでしょうか?それとも“無い”のでしょうか?
なんだか壮大な哲学です。
その哲学とやらは総じて、
『答えは個々にあるのです』的な、
…いやいや、遠い眼をして結局そこで突き放されても…、
という、わりと乱暴で投げやりな感のオチが多いものですから、
つまりは、それぞれが勝手に学び、悟るしかないわけです。
そういう前提にのっとって冒頭の難問を自分なりに結論付けるとすると、
『まぁ…在り?』かと。
とかく、「生と死」に至っては、
この世に生を受け存在してしまった以上、
そこで語る「ゼロ」は“無”には成り得ないと考えるものです。
「生」は在り、「死」は「無」です。
「無」は「無」なのだから、「ゼロ」さえ手にできないのではないでしょうか。
うわぁ…、どうでもええ…
まぁ、こういう一連をひっくるめたうえで
腐男塾「同じ時代に生まれた若者たち」のミュージックビデオを監督するにあたり、
表現すべきことをまとめたのでした。
「生きる」ということはそもそもサバイバルで、
なかなかしんどいことなのかもしれません。
モノが溢れる世の中では気付きにくいことかもしれませんが、
本来「生」は、何もないところで、何も持たず始まり、
そこから何かを生み出し、育むことで、目的を見出すもの。
だから、
何も無いということは“絶望”ではなく“希望”で、考え方を変えれば、
我々はみんな生まれながらに「ゼロ」を手にしている、ということ。
MVでの設定が、廃墟だったり、ミリタリーな衣装だったりするのは、
世がそういうサバイバルなステージであることをシンプルにイメージしていただき、
手にしている「ゼロ」から“行動”を起こす力強さを表現したいと思ったからです。
生きていれば、思い通りにはいかないことのほうが多く、
ときには投げ出したり、ぶっ壊したりしたい衝動に駆られます。
が、見えない何かに抑えつけられ、実際に行動は起こせないのが常…。
常識やルールは大切ですが、囚われ雁字搦めになることもあるでしょう。
投げ出してみましょう。ぶっ壊してみましょう。そんな、“囚われの自分”ごと。
諦め、立ち止まるよりは数倍いい。それも一つの“行動”です。
あなたはまた「ゼロ」を取り戻せるかもしれない―。
腐男塾はまたまた走っています。
醜くても、泥臭くても、我武者羅に走り続けます。
一生懸命に、生きます。
「生きる」とは“行動”。
フられても、嫌われても、イジメられても、あなたは失われない。
あなたの感性、あなたの感情、あなたの行動を大切に、
とにかく、生きてください。
そもそもしんどい世の中で、
“行動”なしでは「ゼロ」のままなのですから。
そしてその“行動”が、
そこにいてくれる人を増やしていきます。笑顔を増やしていきます。
wktk、なのです―。
作詞作曲者であるはなわ氏から楽曲を頂いて初めて聴いたときに
上記のような想いを一気に抱いたので、
なんとなく、その一端でも、ビデオでは伝えられたらいいなと思いました。
映像的なギミックもわかりやすく、ちょっと古臭いものにし、
“生きる”という不変性だとか、シンプルさを強調したいなと。
決して、はなわ氏の意向のすべてが内包されているわけではないと思いますが、
これを視聴する人々すべての感じ方があるわけですし、
MVはその中の一つとして、共感なり、反感なりあればいいなと思います。
本日、発売しました。
せっかくならば、MV収録DVD付きの初回盤をお手にとってみてください。
ちなみに僕は、
いつでも死ねるから生きています。
そして、
「死んでも死ぬか!」と思っています。
ここまでサボると、
普段あまりない“コメント欄”に大量の「エロコメント」が押し寄せていて、
それを削除する作業がちょっぴり虚しい。
だからと言って、この先も毎日更新することは…
まずない。
さて、
相変わらずのぐうたらっぷりではあるが、
前回から一つだけ変わったことがある。
なんと人生初となる“禁煙”にチャレンジしていることだ!
って、思わずドヤ顔で「!」を付けてしまったが、
世の中的には禁煙なんてちっとも偉くないことくらいは知っている。
でも、愛煙家にとってはやはり一大事であり、
ある日突然神様から
「おまえ禁ウンコな。」と告げられるのと大差ない精神的ダメージがある。
この例え、ウマくはないが 大袈裟ではないのだ。
もうすぐ2週間。
友人との会話からいきなり
「吸ったら罰金10万円」という運びとなり、
突然すぎて冷静な判断もできず、
「わかりました」と丁寧語で答えてしまい現在に至る。
1日2箱、編集作業などで立て篭もると3箱という
まぁまぁのヘビースモーカーだっただけにまるで現実味がなかったのだが、
いざ始めてみると意外にも全然平気だったりもする。。。
いや!
平気だったりもした。
平気だったのは初めの1週間だけで、
そこからは「タバコ」を思い出す回数が増え、
日に日にその想いが増していくかのようだ。
もうオレの中では「タバコ」は「タバ子」であり、
「タバ子!オレが悪かった!帰って来てくれ!!タバ子~!!」と、
世界の中心で何度でも叫べる自信がある。
が…!
「タバ子」は科学的に証明されているほど性悪なワケで、
それがわかっていながらメロメロになり骨抜きにされるのは
男としてちょっぴり悔しく…
それに、
オレには嫁がいて、
「私とタバ子、どっちを取るの!?」と迫られた場合
「タバ子」とは死んでも言えないからして…
やっぱり決別するよ。これで終わりにしよう。
さようなら、タバ子。。。
久々すぎですか。そうですか。
いやね、最近は 惰性で生きてる感 満載なんです。ええ。
虚無感ですよ。
いま自分にあだ名をつけるとしたら 「きょむ」 ですよ。
ああ、どうでもよかったですね。
まぁまぁ、
ですのでね、とりたててブログにアップするようなことも無くてですね、
つい 「もう無いモノ」 として頭の片隅に葬っていた向きもあったんですけど…
ありましたよ、事件。
他人にとっては まったくもってどうでもいい事なんでしょうけど。
久々にね、HDDの野郎がイカれちゃいまして。
しかもオフライン試写まで36時間というタイミングで。
とあるインディーズバンドのPVなんですけどね、
現在わりと主流である canonの5Dと7Dというカメラでの2カム撮りだったんですよ。
テープではなくデータ撮りなワケですけれども
使用している編集ソフトではそれに対応していない、っつーことで
別の圧縮形態に変換しなきゃなのですね。
これがフルHDということもあって、まぁまぁ時間を要するワケです。
今回は…17時間。
その変換作業を経てやっと編集できる状態となり、
あとはシコシコシコシコつなぐのです。
ええ ええ、
それはもう例によって シコシコシコシコつなぎましたよ、ボクぁ。
それがね、一瞬にして「無」になるんです。
…なんでしょう、なんと言えばよいのでしょう?
頭がね、連動するんです。変な音たてて。
もうね、「無」になる。
これ、当たり散らすとしたらHDDなのでしょうが、
そうすると数%残っている「復活」の可能性を自ら断つことになりますのでね。
そりゃもうこうして、
ツイッターにつぶやいたその足でブログにアップしたり、
友人に手当たりしだい電話したり、
全然知らない道行く人に 涙ながらに訴えたくもなるってもんです。
まぁ、寝ないでコツコツ また同じ作業をすりゃいいだけの話ですし、
実際は 寝てもなんとかなったワケですけれども。。。
と、
ダラダラと綴りましたが わかってるんです。
このテンションは ほぼ誰にも伝わらないってことくらい。
同業者が慌ててバックアップとってるくらい、ですかね。
いずれにせよですね、
疲れたんで「オチ」とかムリですから。
この記事は「無」がいいです。
W杯そのものは―
日本でもわりと許容範囲な時間帯で視聴することができるが、
試合終了後、素晴らしいプレーに触発されて
つい朝方までウイイレのネット対戦で盛り上がってしまうあたりが…
「ワールドプロレスリング」を見た直後に必ずふとんのうえで
“ひとりプロレス”を繰り広げ、しまいにはペットのタマ(猫)に
バックドロップをかけまくっていた少年時代とちっとも変っておらず、
“どうしようもない大人カップ”なら確実に日本代表だろ、という
このところのオレである。
とにかく、
あまり期待されていなかった風の日本代表が頑張って意地を見せており、
予選突破も夢ではなくなった。
「一つでも上へ。」
そんな“明確な目標”があれば、人はまぁまぁ踏ん張れるのだと、改めて思い知らされる。
「その核心は?」 と問われればズバリ、
“終わりへの意識” だろう。
物事は必ず“終わり”がくる。
その必然を受け入れ、どのように終わらせようと努めるのか?
そういう意識こそが、きっと“後悔”を摘み取ってくれる。
悔やみたくはないのなら、
どんな物事にも“明確な目標”を設定して、
渦中から、いや、すでに始まりから、理想の“終わり”をイメージしておくべきだ。
今までは、、
「明日があるさ」とか思っていたし、
それをポジティブな思想として受け止めていたのだが、
高度なダメ人間レベルを誇るオレさま級になると、
この「明日があるさ」的思考は非常に危険だということに気付いた。
あのね、
100%、うかうかしちゃう。
明日、また明日とズルズル行って、もう一生うかうかしちゃってる自信すらある。
“終わり”なんてちっとも意識できないまま、ヘラヘラしてる。
…ということで、
これからは「今日までの命」と思い込んで生きて行くことに決めた。
今日やれることを明日には延ばさない。
だって明日死ぬかもだからね、オレみたいなもんは。
「終わりは始まり」とも言うではないか。
“終わり”を意識せねば、やるべき事が見えなくなる。
満足な“終わり”を迎えられねば、最高のスタートは切れない。
もちろん、「今日までの命」だからして、人生の“終わり”も視野に入れつつ、
一つ一つを どう終わらせるのか? 今日、いくつ実現できるか?
そんなことを、すこぶる意識して生きようと思う。
いつ“終わり”がやってくるかは、わからないのだから―
…ただし、
以上を踏まえたうえで 最も重要な「矛盾点」を付け加えると、
実態のない“流れ”という魔物に、
たとえ“終わり”を突きつけられたとしても、
自身で“終わり”と区切らない限り、それは“終わり”じゃないのだ。
“終わり”は、オレが決める。
そう、まだまだ終わらせねーぜ。
それこそ、死ぬまでね。
まぁ、、明日かもしれんのだけれども。

